第二期第三回ワークショップ。第一回は谷川俊太郎の詩『生きる』を読み、みんなの『生きる』を書きました。第二回はその詩に対立するものを書きました。でも対立の力が弱いというか、みんなの『生きる』世界を蹴散らすほどの対立がなかなか見えませんでした。
そこで考えたのが『むっつり大王』。とにかく楽しいことやうれしいことが大嫌い。生まれてこの方、笑ったことが一度もないという暗い人生ひとすじの大王。
その「むっつり顔」をやってみました。「むっつりの階段」というコミュニケーションゲームです。7人くらいが横に並び、最初の人は少しだけむっつりした顔を作ります。隣の人はそのむっつりした顔をよく見て、そのむっつり顔を少しふくらませて次の人に送ります。その次の人は更にふくらませて…というふうにだんだん「むっつり」をふくらませていきます。
むっつりのお面を作りました。紙皿に自分のイメージするむっつり顔を描き、目に穴を開け、輪ゴムで耳に引っかかるようにしてお面を作りました。
自分でむっつり顔をして、その自画像を描くヨッシー
お面をつけてみます。
ピアノに合わせて動き、むっつり顔をする理由を一つあげます。
「うるさい!」とか「こっち見んなよ」とかいろんなことを言っていましたが、反省会で、「私がふだん思っていることと同じだわ」「これだけのことをふだん、みんな自分の中で押さえてるんだね」といった意見が出ました。要するに「むっつり大王」は外からやってくるのではなく、自分の中にいた、というわけです。
「みんなの生きる」を蹴散らしてしまうものとして、わかりやすい「むっつり大王」を持ってきたのですが、それは実は自分の中にいた、という発見。
「むっつり大王」を提案したとき、進行役をやっている演劇デザインギルドの代表のナルさんは
「むっつりは、悪ではなく、弱い状態を表していると思います。弱さというのは、単純じゃなくなるということです。外と、あるいは自分の内部とも葛藤を抱えて、なおかつその原因が見えていないからだと思います。」
と意見をくれました。
今回、むっつりのお面をかぶって、むっつりの理由を言ってみたら、まさにそういったことが少し見えてきた、というわけです。
私たちは日々の生活に追われる中で、谷川俊太郎の詩にある「生きる」の世界を、ともすれば忘れてしまいがちです。
大事にしなければならないことを忘れ、私たちはいったいどこに向かおうとしているのでしょう。
先日、映画「ぷかぷか」を久しぶりに見て、
「ワークショップの場には、なんて豊かな時間が流れているんだ」
と思い、
「障がいのある人たちの、できないところをできるようにしようとか、時間のかかるところを、時間がかからないようにしようとか、そんなふうなことをちっとも考えていないからこそ、この豊かな時間が生まれたのだと思います。」
と書きました。
できることはいいことだ、時間のかからないことはいいことだ、みたいなことにずっと追いまくられる日々の中で、だんだん「むっつり顔」が私たち自身の中でふくらんできているのかも知れません。そして『生きる』の詩にあるような豊かな世界を、知らず知らずのうちに自分で押しつぶしているのかも。
だとすれば、ワークショップが創り出しているものや、ぷかぷかが作り出しているものの中にこそ、この「むっつり顔」を超えるものがあるのかも知れません。
それをどうやって芝居の形にするのか、ここからが勝負です。