ぷかぷか日記

ぷかぷか理事長タカサキによる元気日記

どうして沢山の市民の応援を得て作ることができたのか伝えきれていない

 今から30年ほど前、東横線大倉山駅近くのガード下に「みんなのお店」という間口一軒の小さなお店がオープンしました。障がいのある人が二人ほど働いていて、自然食品を販売していました。

 当時、障がいのある人たちは街の人たちと切り離されたような作業所で働いていました。それが普通だとみんな思っていたので、街の中に堂々と出ていって商売をする「みんなのお店」の試みは、そうか、こんなことだってできるんだ、と目からうろこのほどの出来事でした。

 その当時の熱気あふれる雰囲気を当時からかかわっている志村さんが書き起こしてくれました。来年1月7日(日)「港北でぷかぷかをみる会」の実行委員の一人です。

 


 ぷかぷかからヒントを得るためにも私達が港北でどんな事をしてきたのか、または、できなかったのか振り返ってみる必要がありそうだ。
 今、ぷかぷかがとても眩しくみえるけれど、30数年前、港北でも「共に」の、熱い思いはあちこちで湧き上がり、私の周辺では、「みんなのお店」の創設そして「かれん」へと繋がって行きました。
 現在は社会福祉法人となり、継続して、安定した運営ができる場となっています。その事は、よりたくさんの人が安心して暮らすための必要な手立てだったかと 思います。ただ組織が大きくなると、どうし ても制約も出てきますし、日々をまわすことに追われる状況にもなりがちです。福祉という枠組みのなかで支援 と被支援の固定した関係が恒常化してしまう恐れもあります。
 「みんなのお店」は、かれんの原点と言われながら、その原点に込められた共にの熱い思いや、なぜ、どうして沢山の市民の応援を得て作ることができたのか伝えきれていない忸怩たる思いがあります。「みんなのお店」創設を支えてくださった方々が極少数となってしまった今、次世代に共にの思いをどう繋げられるか悩む日々です。
 大倉山駅近くにみんなのお店がつくられたのは1984年5月です。何の公的資金の援助もない普通のお店として出発しました。市民が自分たちの力で自由な発想で、自由な関係で、お店を作り運営することに何の疑問もないという気運の中で作られました。福祉の場ではない普通のお店であることにこだわりました。何故なら障がいのある人も無い人も一緒に店に立ち、誰もができる事は精一杯やり、できない事は補い合うことが当たり前の共に働く場をつくるためです。
 何故このような思いを共有することができたかというと、その一年前に、一つの闘いを共にたたかったからです。

 1983年、当時私はS中学の特殊学級担任をしていました。生徒の非行を警察と一体になって「解決」して有名だったS中学はいわゆる管理統制教育の真っ只中。自由時間無し、精神修養を目的とする修学旅行が計画され、特殊学級生徒は、連れて行かないという校長決定がされたのです。普通学校の中で限定的ではあっても交流教育も実施され一緒に行くのが当たり前と準備してきた生徒達も保護者も私もこの決定を受け入れるわけにはいきませんでした。校内では孤立し厳しい闘いではありましたが、横浜学校労働者組合だけでなく、私が暮しの中で利用していた「はこべの舎」の市村順子さんをはじめ沢山の地域の方々が、「S中特学生徒を修学旅行にいかせる会」に加わり共に声を上げてくださったのです。この時の記録は、小冊子「はじめの一歩」にまとめられていますが、修学旅行に同行された、学校開放センターの岸川さんの、「特学生徒二人の動きが自然なだけに、その周囲に温かさが生まれ、画一的なS中の旅行をやわらげていた。健常児と言われる生徒にとってこそ二人が必要とされているように見えた」との感想は、支援してくださった皆様の共通の思いであり、共にいることこそ地域の自然の姿だと次の年、「はこべの舎」を拠点に、「みんなのお店」開店となったのでした。私が教員になって駆け出しの頃出会ったNさん、Sさんが最初の店員さんとなり、たちまち人気者となりました。まだ珍しかった自然食品は飛ぶように売れたものです。そして販売だけでなく、地域で共にの思いの発信、誰もが楽に生きられる地域作りへとつなげるために、自主保育グループ「あかいくつ」やひかり作業所などにに呼びかけ、隔月で、バザーらくらく市、と、学習会らくらく講座を企画していきました。現在につながるらくらく市の始まりです。らくらく講座では、野本三吉さん最首悟 さん北村小夜さんなどお呼びし熱く 語りあったものです。講座は、その後「街で出会う」と名称を変えて続きましたが、私は、個人的な理由、子育てと教員としての仕事に追われ、中心的な動きからは徐々に遠ざからざるをえませんでした。

 「みんなのお店」は、10年が経過するころから、働きたいと希望する人も増えるなか、バブル崩壊後の社会経済も厳しさを増し、また、運営の中心である、市村順子さんも高齢となられ、このままの状態での存続は、危ぶまれる事態となりました。有限会社にする案なども検討されましたが、長い話し合いの結果やはりつぶれることよりも継続を安定させる方策として公的支援を受けて福祉の場にすることを選んでいきました。  

 1997年地域作業所「オーガニックスペースかれん」2000年「モアかれん」2002年「アートかれん」の開所となり2004年には、社会福祉法人となりました。法人となったことで念願だったグループホームもつくることができました。


 ところで、同じ福祉施設である、「ぷかぷか」のこの数年の動きは私の目にはとても眩しく魅力的にうつる。何故だろうか、いきいき楽しそうに見えるのは何故だろうか。
高崎さんが発信する夥しい言葉の中で「1+1=5」にする関係という表現がキーワードの一つかと思う。 人と人の関係を「1+1」で表すと2となることが普通に良い関係とするな ら、良い関係の上にさらに新しい何かを生み出すような関係を目指そうとする動きや、こころざしが「1+1=5」なのかと思う。それを私流に解釈すると、あなたがいてくれて嬉しい!あなたがいてくれて良かった!と言いあえる関係にして行くということではないかと思う。関係というものは、流動的だから、次々にしかけをつくったり、一緒に動いていくことが必要だ。「ぷかぷか」の止まらないその動きに目が離せない。
 私たちには私たちのやり方があるのだけれど、共にいることの意味、一緒に働くことの意味を問い続け、発信し続けるパワーにかけていたことを反省せざるを得ない今日この頃です。

 

 

 来年1月7日の港北上映会はこちら

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